火炎と水流
―交流編―


#10 おいらだって、がんばったんだい!


街の中にサイレンの音が大きく響き渡った。水の勢いは止まらない。水流達がいる場所もあっと言う間に水かさが増した。
「ちくしょう! 殺してやる!」
淳は持っていた袋ごと店長に殴りかかった。
「村田! よせ!」
慌てて烏場が少年の体を押さえつける。
「放せ! 放してくれよ、先生! あいつが真菜を!」
濁った水に涙が落ちる。
「はは。何の証拠があるんだね?」
店長は馬鹿にしたように笑った。

「大人に向かって殺すだって? なんて恐ろしい子どもなんだ。こんな奴はとっとと少年院にでも入れてしまえばいい」
砂地も言った。
「くっそ! どこまで汚いんだ! 真菜を返せ! おれの妹を……!」
淳は何度も店長に向かって袋を叩きつけた。
「おい、待てよ。それっておいらの服……」
水流が水中から顔を出して言う。が、今や誰も彼の言葉など聞いていない。淳の怒りの言葉を防災無線の声がかき消す。
――水が迫っています。市民の皆さんは早く安全な場所に避難してください!
砂地の腕に組み付いた淳を店長が突き飛ばした。少年は水の中に尻もちをついた。

「淳!」
水流が叫ぶ。
「きったねえぞ! 大人のくせに二人がかりで……。おい、淳! 大丈夫か?」
水流は力を振り絞って水を呼んだ。水は大きくうねって盛り上がり、逃げる砂地と店長に洪水のように襲いかかった。
「へへんっだ! ざまあみやがれ!」
得意そうに言う水流だったが、淳が持っていたビニール袋がすごい勢いで流れて行くのが見えた。
「あ! おいらの服!」
それは、あっと言う間に見えなくなってしまった。

「水流!」
烏場先生の声が聞こえた。水はそこにいた全員を押し流してしまったのだ。烏場は流された淳を抱え、電信柱に片腕で掴まっていた。
「やべっ! ちとやり過ぎちまった」
水流は自分も流されながら空を見た。テレビ局のヘリコプターが飛んでいる。砂地の姿は見えなかったが、店長は数十メートル先のフェンスにしがみ付いていた。
「ちぇっ! しぶとい奴!」
水流が舌打ちする。

「水流、おまえは自力で何とか出来るな?」
烏場先生が訊いた。
「ああ。おいらはもともと水だからな。こんなのへっちゃらさ!」
顔の部分だけ水面にぷっくり浮かべて水流が答える。
「よし。村田は、おれが安全な所まで運ぶ」
ヘリコプターがビルの向こうに消えるのと同時に烏場は淳を足で抱え、黒い翼を広げて空に飛び立った。変化したのだ。

「先生……!」
淳は言葉を見つけられずにいた。自分の身に起きている事の意味がよくわからなかった。
「先生が本物の烏に……。いや、ちがう。これは烏なんかじゃない。だって……掴まれてるのに、ちっとも痛くない。それに……」
淳は街を見下ろした。不安はなかった。不思議と懐かしい感じがした。風が気持ちよかった。空は青く澄んでいた。しかし、街の中は濁った水でいっぱいだった。これは夢なんじゃないだろうかと淳は思った。だが、何度目をこすっても変わらない。同級生の水流は人間ではなかった。そして、担任の先生も……。

(こんな事ってあるのだろうか。まるで、あの時みたいだ。真菜が死んだ日、おれは、信じられなくて、ずっと夢の中にいるんじゃないかって、あれからずっと夢から覚めないままなんじゃないかって思ってた。もしかして、その夢は今も続いているのかな? きっとそうだ。でなければ、こんな……)
しかし、それは本当の事だった。コンビニの建物の2階の窓に佐々木達がいるのが見えた。大声で助けを求めている。1階はほぼ水に浸かっていた。しかも建物は傾き、今にも倒れそうになっている。
「先生! 大変です。佐々木達が……!」
淳が叫んだ。
――わかっている
風に混じった声はそう聞こえた。
――大丈夫だ。先生が必ず助けるから
「信じていいんですね……?」
熱い何かが込み上げて、淳の目を濡らした。


その頃、学校の避難所に桃香がいない事を知った火炎は、あちこち探し回っていた。
「桃香!」
他の避難所にも行ってみたが、どこにもいない。念のため、家に帰ってみたが、やはり姿はなかった。泉野や他の子ども達にも訊いて回ったが、誰も桃香を見なかったと言う。水の流れはまだ強かった。火炎にとってもそれだけの水となると行動に差し支えた。砂地など放っておけばよかったと思った。
「おれのせいだ……」
火炎は公園の近くまで来た。そこには誰もいなかった。水は彼の膝上まであった。

「水が出て危険だとわかっていたのに……。どうして一人で行かせてしまったんだろう」
火炎は後悔した。
(人間は弱い生き物なんだ。ましてや桃香はまだほんの子どもで、見守っていなければ、すぐに命は散ってしまう。儚い花のように……)
遊具も水に沈んでいた。
(おれはまだ人間について理解していなかった)
公園はすり鉢状になっていた。辺りは一面湖のようだ。子どもならきっと溺れてしまう深さになっているだろう。

「また、亡くしてしまったのか。おれのせいで……。桃香、おまえを……大切な命を……桃子さんの時みたいに……」
太い桜の幹に額を当てて、火炎は俯く。
「そんなにあの子が大事かえ?」
ゆるやかに吹く風に花の香りが混じる。そこには一人の女が立っていた。花芽だ。
「花芽……。おまえは見なかったか?」
「水流ならさっきまでここにおったがね。子ども達と一緒に……」
「子ども達? その子達はどこだ?」
「私の弦で巻き付けて丘に上げたよ。その先の小学校に行った筈じゃ」
「その中に桃香はいたか?」
女は首を横に振った。

「じゃあ、水流はその子ども達と一緒なのか?」
「いや、水流は砂地を追って行った」
「砂地を……」
風が葉を揺すった。一枚の葉が舞い落ちた。火炎の手にそれはぶつかって水面に流れた。枯れ葉だった。火炎はじっとそれを見つめている。
「寿命なのじゃ」
花芽が言った。
「……砂地が切らずとも、その木は枯れて行く運命じゃった……。人もまた、いつかは枯れて行く命……。悲しいよのう」
「だが……枯れて行くのは木や人間ばかりじゃないだろう……」
火炎が流れて行った葉の方向を見つめて言う。

「あの人間の少女……。真菜は悼んでくれたのじゃ。花の命を惜しんでくれた。真菜は新芽を小さな手で囲って守ろうとした。それなのに、佐原建設の者達が横暴を働き、あの少女を奪ってしまった」
微かに花の香りが漂った。
「だから、気まぐれに人間の子どもを助けたりしたのか?」
火炎が訊いた。
「ふふふ。我も年を取ったかの?」
「さあ。どうだかな。おまえはもともと年には見えない」
「では、もう一度そなたと……」
花芽がその肩に腕を回す。
「一度きりだから無情になれる」
どこからか流れて来たアヒルのおもちゃが足元を過ぎる。
「おれは桃香が愛おしい……」
「そうかえ? では、行くがいい」
そう言うと、花芽は風のように姿を消した。


桃香は淳の家にいた。そこはマンションの上階だったので水の心配もなかった。母親は桃香をシャワーに入れ、服を着替えさせた。
「よかった。その服、サイズも丁度よくて……。そうしてると、まるで真菜が生き返ったみたいだわ」
「ありがとう、おばちゃん」
桃香が言った。
「おじちゃんは?」
「学校よ。淳を迎えに行ったの。多分、そこに避難しているだろうからって……」
「うん。きっとそうだよ。火炎も学校に行きなさいって言ってたもん」
「それより喉が渇いたでしょう? ほら、オレンジジュースよ。ケーキもあるから、たくさん食べてね」
おばさんが勧めた。

そこは、何もかも整えられていた。涼しそうなイグサのラグにガラスのテーブル。木に彫刻が施されたリビングボードの上には花が飾られ、いい匂いが漂っていた。
「桃香ちゃんのお父さんやお母さんは何をしている人?」
「えーと、桃香にはお父さんもお母さんもいないの。桃香が赤ちゃんの時、死んじゃったんだって……」
ジュースの入った大きなグラスを持って桃香が答える。
「まあ、それじゃあ、今は誰と住んでいるの?」
「火炎と水流」
「それは? 親戚か何か?」
「うーん。よくわかんないの。でも、二人ともやさしいよ。火炎は19才で、水流は……6年生で、今は桃香といっしょに学校に行ってる」

「そうなの。ねえ、よかったらもっとケーキを食べてね」
「ううん。いいよ。もうお腹いっぱいだし、火炎や水流に悪いもの。水流なんてね、いつも火炎に叱られてるんだ。ウインナーの数が少ないって文句ばっかり言うから……」
「ウインナー?」
おばさんが首を傾げる。
「うん。だってうちは家計が苦しいから節約しなくちゃなんだって……。なのに、水流がわがまま言うからいけないんだよ」
「そう……。でも、ケーキはいっぱいあるのよ。帰りにお土産に持たせてあげるわ。そうしたら、みんなで食べられるでしょう?」
「ほんと? きっと水流喜ぶよ。ありがとう! おばちゃん」
桃香はそう言うとうれしそうに笑った。


一方、水流は水の中でかっかと熱くなっていた。目の前で店長がヘリコプターに救助されて行くのを見てしまったからだ。
「おい! 待てよ! そいつを助けるんなら、おいらも連れてってくれよ!」
しかし、全身のほとんどが水と同化してしまっている少年に気付く筈もなく、ヘリコプターはどんどん遠くに離れて行った。
「ちくしょう! また、あのバカ店長に逃げられちまった。しかもあのヘリコプターには砂地も乗ってた。人間ってほんとにお人好しだよな。あんな連中にころっとだまされちまうんだから……」
怒りはしたものの、彼にはもう力がなかった。ただぼんやりと水中を漂うだけで……。なだらかに緩やかに身を任せていれば心地よかった。が、突如バリバリという何かが剥がれ落ちるような激しい音が水中を伝わって来た。

「何だ? どこかの建物が軋んでる。ありゃあ、もしかして崩れるかもしれねえな」
水の圧力というのは凄まじいエネルギーを持っている。橋やトラックや木造の家を一気に押し流したり、壊したりする事だってある。
(所詮、脆いんだよな。人間の作る物は……でも、おいらにゃ、もうそんな力もねえや)
水流はゆっくりと水に溶けた。が、その音に聞き覚えのある子どもの声が混じる。
「助けて!」
「誰か、助けて!」
水流の脇をいろいろな物が流れて行った。プランターや三輪車やほうき……。それらが塀や放置された車にぶつかって激しい音を立てた。鉄のフェンスにぶつかった植木鉢がガシャンと割れて茶色い欠片が水流に当たった。

――助けて

「あれは確か……クラスメイトの佐々木の声だ」
水流は水の中からひょこっと頭をもたげ、首を巡らせた。まもなく、見覚えのある通りに出た。路の向こうにコンビニが見えた。崩れそうになっているのはその建物だった。が、水の勢いはすごく、コンビニはすぐに視界から消えて行った。だが、その建物の2階に佐々木達がいるのを水流は見逃さなかった。
「くそっ! こうなったら根性だ!」
水流は水の中から手を伸ばし、掴める物なら何でも掴んだ。木でも柵でもタイヤでも……。しかし、掴んでも掴んでも水の手は溶けてしまう。
「もう少しなのに……! せめて誰かに知らせねえと……」
その時、ヘリコプターのローター音が響いた。目の前の大きなビルの上に向かっている。
「ちっきしょう!」
がむしゃらに両手を伸ばすとようやく何かを掴んだ。それはそのビルの雨樋だった。
「やった! これを伝って行けば……」
水流はその樋の中に液体の体を滑り込ませた。


ビルの上には淳を抱えた烏場が降り立ったところだった。
「ここなら大丈夫だ」
烏場は再び人間の姿になると淳を放した。
「先生!」
少年の目は潤んでいた。
「ここで待っているんだよ。先生は佐々木さん達を助けに行って来るからね」
淳の肩に手を置くと、先生は言った。

その時、屋上の端にヘリコプターが着陸した。そして、そこから降りて来た人物を見て二人は愕然とした。それはあの砂地と店長だったからだ。
「ほう。どこへ行くと言うんですか? 烏場先生」
そう意地悪く訊いたのは砂地だった。
「この先のビルに生徒が取り残されているんです。それを助けに行かないと……」
「行くったって、外は洪水ですよ。しかもここはビルの8階だ。まさか飛び降りて行ける訳でもないでしょうに……。それとも鳥に変化して行くんですか? カメラの前で……」
彼らの背後にはテレビ局のクルーがいた。
「先生!」
淳が不安そうに言った。
「大丈夫だ」
烏場が落ち着いた声で言う。
「何が大丈夫だって? 化け物のくせに! さっさと正体を現したらどうだ!」
店長が怒鳴る。

「何言ってるんだ! おまえらの方がよほど化け物じゃないか!」
淳が叫んだ。
「何の事だね? おまえもその化け物の仲間なんじゃないのか?」
砂地がにやにやと笑いながら言う。淳はぐいと前に出て叫んだ。
「あんた達、テレビの人なんでしょう? だったら事実を言ってやる! こいつらはおれの妹を殺した殺人犯なんだぞ!」
カメラを構えていた男たちが色めき立つ。
「そうだ。しかも無実の罪を着せておれ達を万引き犯に仕立てたり、土地を買収するために脅したり、許せない事してんのはこいつらの方なんだ」
しかし、淳が何を訴えようと二人は平然としていた。

「ほう。何を証拠にそんな事を言うのかな?」
彼らは冷静だった。そして、カメラも回り続けている。このままではまずいと烏場は思った。
「ならば、せめて子ども達を助けてください。早くしないと建物が崩壊してしまいます」
烏場は必死に訴えた。が、店長は鼻で笑う。
「あれは私の店ですよ。鉄筋で出来ているんだ。あれしきの水で倒れたりするものか。第一、勝手に侵入した子どもの肩を持とうと言うんですか? 彼らは私の店に盗みに入った悪ガキなんですよ。訴えたいのは私の方だ」
そうしている間にも、建物は軋んでいった。そして、それはもうほとんど限界に近づいていた。
「駄目だ。もうこれ以上は待てない」
烏場が背中を向け、ビルの淵に立った。
「先生!」
淳が叫ぶ。

「必ず助けるからね」
目と目を合わせてそう言った。
「ほう。ついに正体が現れるぞ! それとも諦めて飛び降りるつもりなのか? どちらにしてもいいドキュメントだ。カメラの人、しっかり撮ってくださいよ」
砂地が笑いながらそう言った時。
「そうは行くか!」
いきなり声が響いた。雨樋を伝って来た水流がみんなの前に飛び出したのだ。同時に樋から噴出した水が砂地達を襲った。そして、飛沫で前が見えなくなり、カメラマンが転倒し、機材が散乱した。
「今だ!」
烏場は変化して大空に飛び立った。

「くそっ! いったい何が起きたんだ!」
「機材がびしょ濡れだ……。これじゃあ……」
辺り一面水浸しになっていた。
「へへんだ。谷川水流、ここに参上ってな」
裸で立つ少年が水圧で転がった人間達を見下ろして言った。
「水流……」
淳が来て声を掛けた。
「あの、服……。せっかく持って行ったのにごめんよ」
「え? あ、ああ。いいんだよ。そんなの……。でも、女の子がいなくてほんとよかった。いくらおいらでもこれじゃ、ちょっと恥ずかしいもんな」


一方、烏場はコンビニの2階の窓から中に入ると子ども達の無事を確認した。
「先生!」
黒い鳥が窓から飛び込み、人間の姿になった事に子ども達は驚いていた。が、それを説明している暇などなかった。建物が激しく傾き、今にも崩壊しそうだったからだ。烏場は急いで子ども3人を抱え、背中に乗せると空に飛び立った。と同時にその建物は崩れ落ちた。濛々と煙が立ち上り、水の中に何もかもが没した。


烏場は、子ども達を連れて、水流達がいたビルの屋上に戻って来た。
そこにはもうあのヘリコプターは停まっていなかった。
淳だけが一人でペットボトルを抱え、ぽつんと立っていた。
「あっちゃん!」
「村田君、無事だったのね」
佐々木と山本に支えられて石田も駆け寄る。
人間の姿になった烏場も近づいて訊いた。

「テレビ局の連中はどうした?」
「コンビニのビルが崩れたのでみんな慌てて行っちゃいました」
「そうか」
烏場は少しほっとしたようにうなずく。
「先生……」
佐々木達が一斉に烏場の方を見た。
「君達が質問したい事はわかっている」
烏場がうなずく。
「そうだ。私は君達が想像している通り、人ではない」
女子3人がそれぞれの顔を見てはそわそわする。

「さっきは緊急事態だったんだ。すまない。決して脅かすつもりじゃなかったんだ」
みんなの目が烏場に注がれる。
「それに、だまそうとしていた訳でもない。それを知ったからと何かが変わる訳でもない。今でも私は君達にとって良き先生でありたいと願っているし、君達一人一人の事を大切に思っている。だから、君達を助けたし、もし、その事で君達が不快に思い、私を信頼出来ないと言うのなら、私は黙って君達の前から去ろうと思う」
先生が子ども達を見回す。
「そんなの関係ないよ!」
淳が言った。
「人だろうと妖怪だろうと烏場先生には変わりないし、水流だって……」
淳は抱えていたペットボトルを覗いた。水は少しだけぶくぶくと泡立ったが、すぐに静かになった。

「そうね。わたしもそう思います」
少し考えてから佐々木が言った。
「そうですよ。先生が助けてくれなかったら、今頃、わたし達死んでたかもしれません」
山本も言った。
「そうそう。それに、カッコ良かったです。すごく」
石田もうなずく。
「先生はいつまでもわたし達の先生です」
佐々木が言うと、皆が手を出して、烏場の手に重ねた。
「ありがとう。みんな……。うれしいよ。教師になって本当に良かったと思う」
水流もそれに賛成と言いたくて、ボトルの中でピチャピチャ跳ねた。
見ると、街に溢れた水は徐々にではあるが退いているようだった。